【サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん】織田信長&豊臣秀吉&徳川家康 戦国時代三英傑を支えた妻たち!その生涯とは?

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こんにちは、hiroです。

【サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん】で、織田信長&豊臣秀吉&徳川家康の戦国時代三英傑と呼ばれる武将たちの最強を決めるそうです!

ファンの多いこの3人は当然注目されますが、では彼らを支えた妻たちは一体どんな女性たちだったのでしょうか?

織田信長の正室 濃姫 寵愛を受けた側室 吉乃 

まず初めに織田信長。

皆さん知っての通り、「うつけ者」として有名な織田信長ですが、政略結婚で最初の妻『濃姫』を娶ります。

濃姫は、美濃の大名・斎藤道三の娘で信長より1つ年下だったとされています。

それまで織田家は斎藤家とは敵対関係にありましたが、この政略結婚を機に和睦を結んだそうです。世が世ですから、普通にどこにでもあった話なんでしょうね。

ですが不思議なことに、この濃姫についてはほとんど記録が残っていないそう。

あの織田信長の正室の記録が残ってないなんてことある?と不思議に思ったんですが、子供を産んだという記録も、いつ亡くなったという記録もなく憶測しか生まない状態。

本能寺の変の際に信長と共に亡くなったとか、はたまた逃げ延びて天寿を全うしたとか、色々説はあるようですが、どれも確証はないそうです。

そんな濃姫とは対照的に、信長の寵愛を受け、記録も残っているのが側室の『吉乃』。

信長が吉乃にベタ惚れして屋敷に足繫く通い、口説き落として結婚したという、この世の武将には珍しい恋愛結婚でした。

なかなか情熱的な一面を持っていたんですね、信長。

そんな吉乃との間には、2男1女をもうけています。

長男 信忠・・・1576年に信長から織田家の家督を譲られ、織田家当主となる。

次男 信雄・・・伊勢の大名・北畠 具房(きたばたけ ともふさ)に養子入りして北畠当主となっ           たが、信長の死後織田姓に復帰。武将としての才には恵まれなかったため織田家の当主にはなれなかった。      

長女 徳姫・・・徳川信康(徳川家康の長男)の正室

簡単に説明するとこんな感じです。

愛した女性との間に子供ができ、戦ばかりの信長でも幸せな時があったんだと思いますが、残念なことに吉乃は身体があまり丈夫ではなく、29歳という若さでこの世を去ってしまいます。

この時はさすがの信長もひどく悲しんだと言われています。

ちなみに信長には、濃姫、吉乃以外にも8人側室がいて、子供は全部で20人いたとされていますが、残念ながら女の子は記録が残っていない事が多いそうで、生母が誰なのか分からない子供もいるそう。

豊臣秀吉の正室 寧々と、側室 茶々 その役割の違い 

今、大河ドラマで取り上げられている豊臣秀吉。ドラマは弟の秀長目線で進んでいますが、こちらでは秀吉の妻・寧々と茶々について紐解きます。

豊臣秀吉の正室は、織田信長の家臣の娘だった寧々(北政所)です。これまたこの時代には珍しい恋愛結婚の2人でした。

秀吉は知っての通り信長の足軽だったのですが、信長からは「猿」「禿げ鼠」などとひどい呼ばれ方をしていたにも関わらず、妙に女性にモテたそう。

仲のいい秀吉と寧々でしたが子供には恵まれず、側室(誰なのかは不明)に石松丸という子供ができます。

しかし石松丸は5~6歳のかわいい盛りに早世してしまい、秀吉はたいそう悲しんだそう。

茶々(淀殿)は信長の姪にあたり、秀吉はたくさんいる側室の中でも特に寵愛していました。そのため、その頃の側室の中で唯一秀吉の子を産んでいます。

しかし、茶々の産んだ鶴松も3歳で早世してしまい、その半年前に弟の秀長を亡くしていたこともあり、秀吉の落胆具合は大きく気力も失い、甥に関白の座を譲ってしまうほどでした。

しかし後に茶々が二人目の男児、秀頼を出産すると秀吉は狂喜乱舞して喜び、秀長が亡くなって以降始まっていた迷走に拍車がかかります。

そんな秀吉をずっと陰から支え、朝廷との橋渡しや城の中のまとめ役を担っていたのは寧々でした。

信長もそんな寧々をたいそう買っていて、女癖の悪い秀吉を再び「禿げ鼠」よばわりし、寧々のよな妻には二度と会えないのだから自信を持ちなさいと励ましてくれたそうです。

信長から見ても、寧々は良くできた「賢妻」で、「豊臣家の女主人」だったのでしょう。

そんな寧々とは全く違う立場で豊臣家を支えたのが茶々でした。

唯一の秀吉の直系の男子を産んだという事もあり、「世継ぎの母」という立場を確立していました。

もともと16世紀の日本の大名の奥方の役目は、正室は家を取り仕切り、側室は血を絶やさぬよう子供を産み育てるのが役目とされていた時代です。

なので必然的に正室と側室では家の中での役目と立場が違ってくるのですが、寧々に子供がいなかったため、のちのち豊臣家の中でゆがみが発生します。

それが、秀吉の死後、徳川家康との関係性ではっきりします。

正室である寧々は、徳川家との信頼関係を良好に保つことで「豊臣家ゆかりの人々」を守り、秀吉没後の混乱を抑えたとされています。つまりは徳川家と共存を望んだのです。

側室ながら世継ぎを産み、豊臣家の存続を願う茶々は逆に、秀頼を主君として据え、豊臣家の名誉を守ろうとする姿勢が徳川からは「反徳川勢力」とみなされてしまい、徳川家康の策略により秀頼と共に自害に追い込まれました。

実質ここで豊臣家は潰えたのですが、高台院となった寧々はその後も生き続け、徳川家康の後援により京都に高台寺を建て、その門前に屋敷を構えました。そしてその屋敷にて生涯を終えています。

徳川家康 まさかの正室2人!築山殿と朝日姫

徳川家康は、正室が2人おり、側室も15人以上いたとされています。

正室の一人、築山殿は家康に愛され1男1女をもうけます。

それが長男・松平信康と長女・亀姫です。

築山殿は、父親が今川義元の重臣だったこともあり、桶狭間の戦いで織田信長に今川家を潰されて以来、織田家にいい感情を抱いてはいませんでした。

しかし徳川家康が織田信長と、「清州同盟」を締結したのち、より関係性を強固なものにするため信康と、信長の娘の徳姫とを結婚させます。

しかしここで築山殿が徳姫に対していやがらせを始めてしまいます。いわゆる「嫁いびり」というやつですね。

信康と徳姫の夫婦仲も悪かったそうです。

それに耐えかねた徳姫が父である信長に手紙を送り、その手紙には築山殿と松平信康が甲斐国の武田家と内通して謀反を企んでいると記されていました。これにより、織田信長は徳川家康に2人を処分するよう命じます。

徳川家康は苦渋の決断を強いられ、最終的に織田信長との関係を優先。1579年、築山殿は徳川家康の家臣に暗殺され、徳川信康も母とは別の場所で自害を強いられ、母子ともにこの世を去りました。

しかし、この徳姫の手紙は、実は発見されていないそうです。

しかも、築山殿が甲斐国の医者と不倫をしていて、その医者を通じて甲斐国と内通している、そしてそれを信康も黙認しているという、かなり衝撃的な内容も含まれていました。

その内通自体も本当かどうか定かではないのですが、結局家康は、家のために妻と長男を切り捨てました。

その後家康は正室を据えていなかったのですが、勢力を拡大していた家康を取り込もうと画策した秀吉に大阪城への登城を促されます。

大阪城へ参上するという事は、臣従を意味するため家康は渋ったのですが、秀吉の異父妹である朝日姫と実母を人質として差し出されたため、家臣ではなく義理の弟として大阪城に行くという建前で参上したといいます。

その時の人質の朝日姫が、二人目の正室です。

しかもこの朝日姫、実は結婚していたのに無理やり離婚させられ、家康に嫁がされたというのだから驚きです。

そこまでしてでも、秀吉は家康を取り込みたかったのでしょうね。

不憫な朝日姫、盛大に祝われ徳川家康に輿入れして結婚生活を送りますが、間もなく病気を患い、47歳でこの世を去りました。

ちなみに離婚させられた元夫の佐治日向守は、面目を失って自害したとされています。どちらも可哀そうですね・・・。

まとめ

いかがだったでしょうか?

時代が時代なので、近世では考えられないような生い立ちも多々あったと思います。

しかし、家を支え、夫に寄り添い続けその役割を果たしてきたであろう女性たち。

今よりはるかに、女性には生きにくい時代だったであろうに、たくましく生きた彼女たちの姿は尊敬でしかありません。

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